2019年3月31日

「わが神、わが神」

 主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の祈りは、マタイとマルコによる福音書のふたつだけが伝えています。他の福音書は記していません。

 マタイによる福音書は弟子のための福音書と言われます。使徒言行録にもはっきり示されるようにキリスト者は皆キリストの弟子です。弟子として、自分の十字架を負って十字架の主に従う。主は神の権威、権能をもって弟子を召し出し、弟子を教え、訓練をされます。マタイによる福音書は、その主イエスの権威を一貫した主題としています。しかし十字架の上においては、主イエスはその権威を失われたと理解すればいいのでしょうか。 主イエスは十字架の上で全く無力です。権威を失っておられるように見える。すべての権威を失い、あとはただ権威あるエリヤに助けて貰うよりないと周囲の者は見ていました。そのために「エリ、エリ」と神を呼ばれた主の言莱も、エリヤを呼んでいるとしか聞こえなかった。その奇跡が起こるのならば見物しようと思っていた。

 私たちは、ここまで深く神に捨てられ、神の審きを受けられた主イエスだからこそ敵を愛することがおできになり、また私たちにも教えてくださることができる方であるということに気づくのではないでしょうか。 敵を愛するということ、これは徹底的に自らを捨てることにおいてしか成り立たないこと、十字架を負うということでしかあり得ないことを、主は示しておられるのです。