2018年9月23日

「この最後の者にも」

 私たちは聖書を読むときに、そこに書かれていることが何を指しているか、誰を示しているか、ということに注目します。福音書の「たとえ話」などは特にそうでしょう。それはとても大切なことです。聖書の言葉をただ第三者のように眺めるような読み方では主体的な読み方にはならないからです。もっと大事なことは、聖書の中に登場する誰と自分を重ね合わせて聖書を読んでいるかということです。

 今朝の聖書箇所であるマタイによる福音書20章には、このようなたとえ話が記されています。ある人がぶどう畑の収穫のために1日に5回も町の広場に出て行って日雇いの労働者を集めます。            労働者はその都度追加され、夕方になって約束どおりそれぞれ賃金(デナリオン)が支払われることになると、最後に仕事に就いた者から賃金が支払われることになりました。

「この最後の者」(14節)とは1日中仕事にありつけず、日の暮れるわずか1時間前に雇われた人たちのことです。「この最後の者にも」1日分の賃金が支払われました。                      「この最後の者にも」とは、「最初の者はもちろん、この最後の者にも同じように」という意味があります。これは、すべての人がキリストによって救われるということです。                    そして、実は私たち自身がその最後の者であることに気付かされるとき、私たちは言葉に言い表すことの出来ない大きな感謝に包まれます。

 キリストの福音は私たちのもとまで届けられています。主イエスはこの私のために十字架に架かってくださって、この私を「最後の者」として愛してくださるのです。