2018年3月25日

「ピラトと群衆と私たち」

 ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトという人物は、聖書本文を読むと、それほど悪い人間には思えません。彼は無理矢理この裁判をさせられたのでした。バラバという男とイエスの「どちらを釈放してほしいのか」と、2度もしつこく群衆に問いかけています。単純に聞いているならば、1度でよかったでしょう。何とかして、イエス・キリストに有罪判決を下したくなかったのでしょう。しかしついに群衆の「十字架につけろ」という声に押し切られてしまうのです。最後に自分の手を洗いながら、こう言い放ちました。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」。

 ピラトは、自分が誰かを助けられる地位にありながら、それを用いてその人を助けませんでした。その責任が問われてくるということでもあるでしょう。   ピラトの裁判において最も不気味な存在は、群衆です。群衆、それは匿名の集団です。名前がなく顔が見えない、主体性をもたず、責任を取らない。それでいて確かに存在し、国の総督をも動かすほどの力をもつのです。

 この群衆は、イエス・キリストの一行がエルサレムに到着した時には、大いなる喜びと興奮をもって迎えました。しかしここでは全く逆になってしまいました。    この群衆に罪はないのでしょうか。やはりこの群衆にも、罪と責任はあります。ピラトは、一旦群衆に判断を委ねたからです。人びとは何も言えなかったのかもしれません。ただ成り行きを見守ることしかできなかった。しかし、ピラトはそのように躊躇した人にも問いかけたのではないでしょうか。   まさにその時に、「この人を十字架にかけてはいけない」と言うことができなかったのです。