2018年11月4日

「主イエスにゆだねて」

 今朝の御言葉は、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」との問いかけから始まっています。

 著者であるパウロがこのように問うた背景には、主イエスの恵みを誤解した生き方があったためではないかと考えられます。つまり、主の恵みは「罪人の赦し」なのだから、赦されるために罪にとどまっていてよいと言い出す人びとがいたのではないかということです。

 キリストが代わりに死んで下さった。だから罪があってもよい。それどころか罪の中にいればこそ、恵みを受けるのではないかというのです。   主イエスの十字架の恵みには、「罪の私たちの身代わりとしての十字架」ということがあります。主が私たちの身代わりとなって、罪の裁きとその結果を負って下さったのです。そして、私たちはその罪にもかかわらず、赦しを受けています。それは、まったく無条件で、ありのままのこの私が、相応しくないにもかかわらず、赦され、受け入れられ、よしとされています。        しかしこれが、ともすると、私たちの生活の中では、キリストの贖いの死の重みを忘れて、罪の中にただとどまることになってしまうことがあります。罪の中にいるままで、このままに赦して欲しいということは、誰にでもあるのではないかということです。

 罪の中にとどまるのでなく、主イエスの十字架によって何かが変えられていきます。あなたの人生に変化が生じるのです。主の十字架による救いは、罪の私たちをただそのままに赦すだけでしょうか。そうではなく、さらに私たちを罪から解放し、その罪による私たちの破れをも癒してくださるのです。