2018年4月29日
「真理の霊が来るとき」
ヨハネによる福音書には、「憎む」という言葉が12回も出てきます。そのうちの8回がこの15章に出てきます。 これは弟子たちがいかに強烈に、イエスが死んだ後迫害されるか、この世の憎悪の標的とされるかということが強調されています。実際のところ、この福音書が書かれたとき、すでに彼らがいた教会は、ユダヤ教徒とローマ帝国からの厳しい迫害にさらされていました。
特に、ユダヤ教の指導者たちはイエスを十字架につけて殺したのですから、そのイエスを救い主と信じる人たちは受け入れられなかったわけです。ヨハネたちはそれでも、「何を」「誰を」信じるのかを、はっきりと示していきました。そうすれば当然追い出されたり、憎まれたり、迫害されたわけです。まさに、そのような経験のまっただ中で、この福音書は書かれたのです。 主イエスご自身は、「彼ら」との間の裂け目・憎しみの中に身を置かれました。そして、苦しみ、悲しみもがきながら、その中から弟子たちに足を洗い合うこと(愛し合うこと、仕え合うこと)を語ったのです。その中から愛を作り出そうとしたのです。そこからしか、本当の平和は生まれてこないということなのではないでしょうか。このことを本当に信じられるのかどうかが、私たちには問われているのです。
分裂や憎しみを超えられる力、神の聖霊が風のように注いでくれるのだということを私たちは信じたい。信じつつ、その対立や憎しみの中に身を置きながら、足を洗い合っていく、対話するための言葉を探していくことをしていきたいと心から願います。