2017年9月10日

「悲しむ人びと」

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」というのは、本当でしょうか。確かに悲しんでいる時に慰めの言葉をかけられるとうれしいものです。しかしそれだけでは「幸い」とは言えないでしょう。いくら慰めてもらっても、そもそもその人にとっては悲しみの原因となることがなかったほうが「幸い」であったと思います。  そう考えていくと、この言葉も、先週の「心の貧しい人々は幸いである」という言葉同様、私たちの常識、私たちの知識や経験を超えた言葉であることがわかります。私たちには語ることのできない言葉です。

 神の子としてこの世界に来られたイエス・キリストこそが、「悲しむ人々は幸いである」と、真実に語ることのできた唯一の方でありました。イエス・キリストは、誰よりも大きな悲しみと苦しみを経験し、悲しみと苦しみのうちに死なれました。

 新共同訳聖書において「慰める」と訳されているギリシア語、パラカレインという言葉には、深い意味があります。それは本来「自分のかたわらに呼び寄せる」という意味です。そこから「助ける」「励ます」「慰める」という意味になりました。    ですから「悲しむ者が慰められる」とは、「誰かが悲しむ者のかたわらに立って、助け、慰め、励ましてくれる」ということです。一人ではとても悲しみを乗り越えることができなくても、かたわらに立って勇気づけてくれる方がいるという約束です。

 いったい誰が立ってくれるのでしょうか。それは今日、あなたのそばに立って、あなたを助け、励まし、慰めてくれる方イエス・キリストであり、聖霊なのです。