2017年8月27日

「主、我らとともにいます」                                    執事 豊永義典

私の父が5月18日に95才で生涯を終えました。95年の人生を通して色々なことを教えてくれた父を、有難うと天に送りましたし、父の人生には神が共におられた、と思わずにはおれませんでした。

またアフガニスタンで30年以上にわたって専門の医療分野だけでなく、沙漠化した大地に水を取り戻す仕事を続けてこられている中村哲さんは、何冊もの本を書かれていますが、「天、共に在り」という名前の本があります。この題名は聖書の「インマヌエル=主我らと共にいます」に由来しており、本のなかで「現地30年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。」と書かれています。ほんとに身を低くして、現地で苦しむ一人ひとりと向き合ってこられたその生き方に、ここにもイエスさまがともにおられると感じるのは私だけではないだろうと思います。

この説教を準備している時に次のような文章に出会いました。   

キリスト者として選ばれたということは、イエスのそばにいつものほほんとしていることを意味しません。それは遣わされるための選びです。私たちはイエスのもとにいるだけでなく、イエスのためにイエスを離れるとき、逆に真にイエスのものとなるのです。遣わされてこそ、はじめてイエスと共にあるのです。  イエスさまが私とともにいて下さるという大きな恵みのもとで、遣わされたところに出かけ、そこで課題にしっかりと向き合い、対話を重ねながら解決点を見い出していく、そこではそれぞれと共にいて下さるイエスさまならどうされるだろうと一歩下がって、相手の言うことを謙虚に聴く姿勢を大切にしていくなかで光が見えてきて、あらためて「主が我らとともにいます」ことを実感する時となるのではないでしょうか。