2017年8月20日

【人は何のために生きるのか】

                                執事 安里耕二

息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。(ルカ15:2122

 私は若い時、心の中にぽっかりと大きな穴があいているような虚しさを覚えていました。物を持たない時期はがむしゃらに生活するだけで精一杯でした。仕事も失敗を重ねながらも、ひたすら走り続ける自分がありました。少し物が買えるようになっても、あるいは多少仕事が出来るようになっても、このままではいずれ行き詰ってしまう、という感覚が付きまとっていました。心の中に心棒となるもの、"生きがい"を求めていたのです。そして、教会につながるようになって、色々な方とお話しするなかで、多くの方々が同じような思いを抱いていた事を知りました。

動物は"生きがい"を求めて悩んだりしません。人間だけが、真剣に生きようとする時「自分は何のために生きるのか」という問いに出会うのです。

人間は神によって神のかたちに似せて造られた特別な存在だと、聖書は語ります。人は欲しい物、便利な物を手に入れるだけでは、真に満足出来ないのはそのためであり、さらにその心は神の所に帰るまで完全に満たされることはない、というのです。

今日の聖書箇所は、よく読まれている、放蕩息子の一節です。財産を無駄使いして全てをうしなった後に、罪を告白して父の所に帰って行く場面です。改めて「主のもとに立ち返る事」を学ぶ機会を与えてくださった教会員と、何よりも神様の計り知れない導きにより、講壇に立つという恵みに、感謝申し上げます。