2017年7月9日
「誘惑にあわせず」─主の祈り7
どうしようもなく辛い経験をする時、私たちは「神様なんかいない」と思うことがあります。また辛く苦しい経験は、場合によっては、私たちを向上させるような試練ともなり得ます。しかしいったい何が試練で、何が誘惑であるかは、その時にはわからないのではないでしょうか。それに打ち勝ったりできた時には、「あれは試練だった」ということになるでしょうし、そのままずるずると神様から離れてしまうならば、「あれは誘惑だった」ということになってしまうのではないでしょうか。 実際に日本語で「試み」と訳されているギリシア語は、試練も誘惑もひとつの言葉で、両方の意味を含んでいるのです。
しかし逆に「よいこと」の中にも誘惑がひそんでいます。私たちは、あまりにも幸せだと、神様のことを忘れてしまいがちです。また何かに成功すると、「自分の力で成功した」と思い、すぐ傲慢になります。
学問はどうでしょうか。それぞれの学問には追究すべき真理があります。しかしその真理が絶対化されてくると、生きた神様がすっぽり抜け落ちてしまうことがあります。芸術にも神様を賛美するものがある一方で、神様を忘れさせる陶酔的なものもあるのではないでしょうか。 こう考えていくと、ありとあらゆるものが誘惑になり得るということがわかります。そして大事なことは、それは決してあなどることのできない力だということです。
「試みにあわせず」の「あわせず」は、「偶然、出会う」というようなことではなく、「引きずり込む」というような非常に強い言葉です。「私たちを誘惑に引きずり込まないでください」と祈るのです。