2017年10月22日

「キリストの言葉を聞くことによって」

 私たち人間は、日ごろ物事を認識するために様々な感覚や機能を働かせています。なかでも「見る」ことと「聞く」ことはたいせつな働きをしています。それらは、ただ単に目で見て、耳で聞くこと以上に、私たちの精神や生活に大きな影響をもたらします。つまり私たちには、見ることによって開かれる認識の世界と、聞くことによって開かれる認識の世界があるわけです。

 古代ギリシア人は見ることを重んじたので、彼らによって実証的な科学の世界が開かれたと言われ、それに対して聖書の民族であるヘブライ人は聞くことを重んじました。それによって彼らは信仰の世界を開くことになったと言われます。もちろん、どちらもたいせつな認識の世界ですからどちらに優劣があるということではありません。しかし、聖書の真理の世界は、「見る」ことによってではなく、「聞く」ことによって開かれるのです。

 ものごとをよく見るという姿勢はたいせつですが、実は自分が今見えていることで、それがすべてだと思い込む危うさがあります。「百聞は一見にしかず」と言われるように、たしかに言葉を尽くして説明するよりも、とにかく見てもらった方が早いということはあります。しかし、そこで見えたものがすべてだと思い込んでしまうということです。    旧約聖書の昔から、聖書の世界は、見ることによってではなく、神の御言葉をまず聞くことによって成り立ってきました。その神の言葉に耳を傾け、聞き従うことが、神の民と呼ばれる人たちに生命をもたらしたのです。