2017年10月15日

「イエス・キリストを宣べ伝えて」

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙第一118節)

 十字架の言葉の愚かさとはどういうことでしょうか。それは下降する、下るということです。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことです。神が罪人のもとにまで下降するということです。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさです。自ら、あえて選んで降りて行く愚かさです。それは人の知恵では理解できません。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できません。なぜなら、人の知恵や思いは必ず上に向かうものだからです。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからです。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからです。   その意味で、十字架の言葉はまことに愚かです。しかし、「わたしたち救われる者には神の力です」とパウロは言います。

 この神の渾身のメッセージを伝えるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言うのです。

 十字架の言葉も愚かですが、それを伝えるためにも愚かな手段を選ばれました。神は世に救いをもたらす業をご自身の圧倒的な威力で進めようとはされませんでした。私たちを用いて進めようとされます。

 主イエスは弟子たちの持てる物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれたのです。救い主は、この弱い、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを望まれました。