2017年8月6日
「憐れみ深い人びと」
カトリック教会の礼拝(ミサ)は、「キリエ・エレイソン」という言葉で始まりますが、これは、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。
私たちは自分の言葉で祈る時には、「主よ、憐れんでください」という言葉は、なかなか出て来ないのではないでしょうか。何らかのプライドが常にあって、「自分は憐れんでくださいというほどには、落ちぶれていない」と思うからではないでしょうか。それは、私たちが誰かに憐れみを施す時の、人を見下すような心の裏返しなのかもしれません。 「憐れみ」というと、普通、私たちは高い所から、(自分は高い所にいるままで)低い所にいる人に対して、何かをしてあげることを考えるのではないかと思います。しかし聖書は、もっと深い意味で、この言葉を使っています。誰よりも「憐れみ深い」方は、イエス・キリストでした。
誰かが、「クリスチャンが行う憐れみの行為にはいつも偽善的な臭いがつきまとう」と言いました。私たちは、そのことを心に刻んでおく必要があるでしょう。しかしだからと言って、何もしないでよいことにはなりません。私たちはそのことをよくわきまえた上で、主イエスに従う者になりたいと思います。
「憐れみ深い人々は、幸いである」と言われる時、イエス・キリストの憐れみからはほど遠いような、私たちの貧しい憐れみも、また祝福されているのです。神様は、私たちの限界ある憐れみの行為を清めて用いてくださる方なのです。