2017年7月30日

「いのちを生み、育む人」

                                          神学生 高橋周也

創世記のはじめで、「人が独りでいるのは良くない」と神は言われました。神に似せて、神のかたちに造られた人間が、一人でいるのはふさわしくないという意味です。神様は、交わりの神、人格的な出会いを求める神だからです。    人は、地上のあらゆる生き物に出会いましたけれども、自分が生きることを支えてくれるものには、ついに出会うことができませんでした。

 それをご覧になった神様が、男(イシュ)のあばら骨から、女(イシャー)を造られた、と聖書に書いてあります。私たちは、互いに他者を必要とします。誰かと話をし、生活をし、仕事をし、遊び・・・そうして、人は人になるのです。    アダムと女という人類最初の人間関係に「罪」が忍び込んできました。確かに、ふたりは「善悪を知るもの」となったのです。つまり、神様が「よし」とされたものをよしと言えなくなる。

 私たちは時々失敗をします。その時、全てを失ったように思いこみます。一緒に生きるものを喜べなくなり、この状況をゆるしている神に対しても不平を言います。それこそ蛇の誘惑です。「今なおあるもの」はたくさんあります。何より神様は、「それでも」私たちを見捨てないのです。

 この出来事を通して、アダムは新しくこの人に「エバ(命)」という名をつけます。神様は、アダムと女に、皮の衣を作って着せてくださいました。今度はこの姿を通して、互いに愛しあうものとなっていったのです。

 エデンの園の門の外は、労多く不毛な「茨とあざみの生え」る世界です。私たちの現実も、そうではないでしょうか。この苦しみの中で、エバという人は、命を生み出し育んでいきます。その豊かさに、アダムはどれだけ力を得たことでしょうか。