2017年10月8日
「主において常に喜びなさい」
聖書は、私たちに「主において常に喜びなさい」と語ります。「重ねて言います。喜びなさい」とまで繰り返します。 聖書の御言葉を信じるキリスト者とはどういう人のことでしょうか。今日の御言葉によれば、「主において常に喜ぶ人」であると答えることができるでしょう。
聖書は、今日教会に来られた方にも、信仰による「喜び」に加わってくださいと語りかけています。しかしそれはどういうことでしょうか。私たちは本当に喜ぶことができるでしょうか。何か喜ばしいことが起きたなら、喜びは自然に湧くでしょう。
しかし、聖書は「常に喜びなさい」と伝えます。それは無理なことではないでしょうか。喜べないような、辛く悲しいことが起こっても、それでも「喜びなさい」と言えるのでしょうか。
フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがエフェソの牢獄に捕えられながら記した手紙であると言われ、「獄中書簡」の一つとして呼ばれてきました。
フィリピの信徒たちは、牢に捕えられたパウロに生活の必需品を差し入れするため、エパフロディトという若者を送り込み、彼がしばらくパウロのそばに留まって、お世話をしました。ところがそのエパフロディトは瀕死の病気になってしまい、やっと病が癒えたとき、パウロはこの手紙を持たせて、フィリピに帰すことにしました。 そうした事情で、この手紙の中には、まだ最終的な判決こそ下されてはいませんが、ひょっとするとパウロは自分がこのまま殉教者として死ぬことになるかもしれないという予感もあって、そのことが随所にあらわされています。
パウロは大変厳しい状況の中にいました。しかしその中で繰り返し「喜びなさい」と書いたのです。