2016年3月6日
「イエスの姿が変わる」
「山上の変容」とも呼ばれるこの箇所は、福音書の中でもわかりにくい話のひとつであると言われます。しかし、実はここにはイエス・キリストがいったい誰であるかを理解する大事な鍵があらわされています。
それは、「人の子」として生きてこられた方が、この時「神の子」としての本当の姿を少しだけ見せてくださったということです。もちろんこれまでもずっと「神の子」であったのですが、それは「人の子」という覆いによって隠されていました。
キリストの教会ではイエス・キリストを「まことの神にして、まことの人」と信じています。私たちの常識からすれば、人間であるということは神ではないということであり、神であるということは人間ではないということでありましょう。人間が神になることはできないからです。しかしイエス・キリストは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)と言われました。全知全能の神であれば、確かに人間にもなれるはずです。
ただしそれは全知全能のお方があえて、人としての限界を帯び、永遠のお方がある時間の中に入ってくることを意味しています。神が人になった。なぜそんな回りくどいことをなさったのか。それは、どこまでも人間を救うためです。かぎりなく深い愛で、神の似姿である人を愛されたからです。
神であるお方、主イエス・キリストが、まことの人間として、私たちの罪の贖いとして立ってくださったがゆえに、私たちもそれに連なることが許されるのです。それが新約聖書の根本的メッセージなのです。
「風を見て、波が大きくて沈没するような教会はない。教会はイエス様から目を離した時に沈没する」 マルティン・ニーメラー