2016.11.6
「十字架につけられたままのイエス・キリスト」
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3:1)とあります。パウロは「はっきり示された」とあるように、彼自身の説教を通して示されたはずではないかと言うのです。実際パウロは他の箇所でも「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(Ⅰコリ1:23)と語っています。また「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(同2:2)と記されている箇所もあります。
十字架につけられたキリストを語り伝える、それがパウロの使命であり、説教でした。私たちも「目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示される」礼拝を献げたいと、心から願います。
「十字架につけられた姿ではっきり示された」とあるのは、ギリシア語聖書の本文の順序通りだと「あなたがたに対し、眼の前にイエス・キリストがはっきり示された。十字架につけられたままで」と訳すことができます。この「十字架につけられたまま」という言葉は、受動相(態)完了形が使われ、文節の最後に置かれることでかえって強調されています。ですから、文語訳の聖書では「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」と訳されています。
「十字架につけられたままのイエス・キリスト」というのは、心理的な同情を誘うために強調された文章ではありません。それは、「イエス・キリストが十字架につけられた」ことが過去の出来事として過ぎ去ったのでなく、その出来事が現在も持続的な意味と力を持っているということです。