2016.10.30

「天の国のたとえとして」

 花婿が来るのを十人のおとめが待っていました。彼女たちは花嫁の友人です。花嫁は控えていて、花嫁の友人たちが花婿を出迎えたのです。ヴェールをかぶりおしとやかにしている花嫁の喜びを、その花嫁の友人たちがストレートに体全体で表現する役割を担っていたのかもしれません。   ところが花婿はいつまで待っても来ません。みんな眠気がさしてウトウトと眠り込んでしまいました。その時突然、「花婿だ。迎えに出なさい」という叫ぶ声にびっくりして、とび起きました。ところがともし火が消えかかっています。十人のうち賢い五人は油を用意していましたが、愚かな五人は備えがないので、あわてふためきました。そこで油の用意をしていた五人に頼み込みました。しかし冷静に、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(9)と断られてしまいます。そのとおり買って帰ってくると、すでに花婿は到着し、戸は中から閉められていました。

「御主人様、御主人様、開けてください」と叫ぶのですが、こう言われてしまうのです。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(12)と答えられました。

 イエス・キリストの教えからすれば、たとえ自分の油がなくなろうとも、油を分けてあげるべきではなかったでしょうか。主イエスは「隣人を愛せ。友を愛せ。敵まで愛せ。そのために自分の命まで差し出せ」と教えられました。そういう意味からすれば、この五人の「賢いおとめ」は、主イエスの弟子失格、とでも言えそうです。しかしながら、この話をなさったのは主イエスご自身ですから、いよいよわからなくなってきます。主イエスは「天の国のたとえ」として、どうしてこんな話をなさったのでしょうか。