2016年9月18日

「神の可能性」

「富める青年」が悲しみながら立ち去った後、主イエスは弟子たちに言われました。

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(23〜24節)。

 この主イエスの言葉は、当時の常識をくつがえすものでした。一般的には、「富は神様の祝福であり、正しい行いに対する神様の報いである」と考えられていました。ですから逆に、「貧困も神様の報いなのだ。本人か先祖が悪いことをしたから貧乏なのだ」ということにもなります。これと似たような考え方は、古今東西よくあるのではないでしょうか。

 しかしイエス・キリストは、逆に金持ちのほうが天の国に入るのが難しいと言われました。ここには信仰の逆説があります。金持ちは、自分に自信をもち、自分の持ち物で何がしかのことができると考えている。言葉を変えれば、自分の能力と自分の持ち物に依り頼んで生きている。しかもそれを捨てることができない。だから逆に天の国から遠いのだと言われます。   弟子たちは、非常に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」(25節)と言いました。自然な反応だと思います。

 主イエスは、「らくだが針の穴を通る」というたとえを用いられました。らくだは中近東の人びとが知っている最大の動物でした。一方、針の穴というのは、穴の中でも最小です。どう考えても絶対に入れそうにありませんし、らくだと針の穴の対比は、あまりにも奇想天外な話しです。   ですが主イエスは、ここで「だから金持ちは救われない」のだと結論づけられたわけではありません。全く別の角度から新たな可能性を示されるのです。