2016年9月11日

「どこに立つのか」

 これは、「富める青年」として有名な物語です。しかしあまり好まれる物語ではないかもしれません。それは自分がどのように生きているかが鋭く問われてくるからではないでしょうか。この物語は、財産と信仰が切り離せないものであるということを訴えかけてきます。聖書を読む私たちは、この突き付けられた問いを、あまり簡単に解消してしまわないほうがよいのではないかと思います。問いとして、チャレンジとして、心に残っている。そういう状態は居心地がよくないものですが、安易に答えを見いだしてすっきりしてしまうよりも、かえって大事なのではないでしょうか。

 聖書という書物は、そういう大きな問い、一生かかって答えを見いだしていくような問いを突きつけてきます。それは言葉の難しさなのではありません。言薬の上では、単純なことなのです。

 一人の青年が、イエス・キリストに近づいてきて、こう質問しました。 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)。  彼はたくさんの財産を持っていて、誰もが羨むような恵まれた人でした。しかも、非常にまじめで誠実な青年です。人生について、深く考えているからです。聖書に書いてあることもきちんと守っている。それでいて何かが足りないと意識している。これで十分という確証が得られない。しかし、どうすればよいのか、彼自身もわからないでいる。ある種の完璧主義者であるとも言えます。

 この青年は、善いことを積み重ねていくことによって、永遠の命を得られると信じています。これまでもできるだけのことはしてきたつもりです。それでも納得がいかない。それでイエス・キリストのところへやってきたのです。