2016年6月12日

「神の似姿としての私たち」

 主イエスは、マタイによる福音書517節において「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ここから始まる部分で、それでは律法をどのように完成されるのかが、具体的に語られていきます。主イエスが最初に取り上げられたのは、「殺すな」という律法でした。

 しかし、そもそもどうして人を殺してはいけないのでしょうか。世界中のほとんどすべての法律や宗教が「人を殺すな」と言っていますが、その理由を明確にしているものは、実は案外少ないのではないでしょうか。「人を勝手に殺してもよいということになれば、社会の秩序がなくなってしまう。自分の命を守ってくれるものがない。だからお互いに殺し合いはやめよう」。おそらくそれくらいではないでしょうか。ですからひとたび戦争が始まると、「なぜ殺してはいけないか」があいまいになり、ときに「敵は殺してもよい」、いやそれどころか「多く殺した方が英雄」ということになってしまうこともあるのではないでしょうか。しかし聖書は違います。なぜ人を殺してはならないのかという問いに、聖書はこう答えます。  

 「人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9:6後半)。

 すべての人は、神のかたちを宿しています。一人ひとりの命と生の中に、神の意志が存在します。いかなる人であっても、神にかたどって造られ、そして契約のパートナーでもあるのです(同9節)。だから殺してはならないのです。 

 戦争であろうと何であろうと、人を殺すことは神の意志を踏みにじることであり、私たち一人ひとりと真実な関係をもち続けようとされる神の尊厳を汚し、神を冒瀆することであり、神を悲しませることになるのです。だから殺してはならないのです。これほど明確な理由はありません。