2016年5月29日


主イエスの公生涯のはじまり」

 マルコによる福音書1915節の物語は、主イエスの「公生涯」(私的な生活から出て、公的な舞台で働く生活)の出発を告げるものであります。                                                               イエスは郷里のガリラヤで若き日を過ごされた後、洗礼者(バプテスマ)のヨハネが神の国の近いことを預言し、人びとが神の国に入ることができるために悔い改めとバプテスマを施す、「神の国」運動を始めたことを聞くと、家を出てヨルダン川ほとりのヨハネのもとに行き、バプテスマを受けました。主イエスは、ご自分も神の民の一員として生きる決意をされたのであります。                     このイエス・キリストの決断は、同時に神の決断でありました。その受洗のときに、天が裂け、聖霊が鳩のように降り、天からの声があったというのは、このことの神的な側面を示しています。それは、天と地、神と人とを隔てる障壁が取り除かれ、神が親しく人に迫られ、交わりを持たれたということです。主イエスの出現によって、人間は神を遠い方としてではなく、きわめて近い方として仰ぐように導かれたのであります。                                                              主イエスがバプテスマを受けたとき、主は「天が裂け」、雲が裂けて太陽が地上を明るく照らすように、世界に神の国の夜明けが来たことを感じられたのであります。

 やがて主イエスの教えと働きに接した人びとは、自分たちは自分たちだけでこの暗い現実を担っているのでなく、自分たちと共に生き、自分たちのために生きてくださる方がおられるのだということを知りました。そこで、当時宗教的社会的に疎外されていた人びと、徴税人や罪人が主イエスのもとに集まって来ました。