2016年5月15日


「響き合う者の群れとして」

「ペンテコステは、教会の誕生日」とよく言われます。しかし、聖霊が降る五旬節の日の前から、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」(使徒1:15)とあります。120人というのは、大した人数です。外見上は、ペンテコステの前からすでに教会は誕生していたかのようにも見えます。

 旧約(ヘブライ語)聖書の創世記には「バベルの塔」の物語があります。ここも読みようによっては、みんなで仲良く集まって、一つのことをしようとしていたのであり、神が罰せられるような悪いことではないようにも思えます。しかし、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)と記されているように、神への挑戦という倣慢な心があったのは事実です。一つになれば良いというわけではない。一つになって罪も犯すのが人間の現実なのです。

 すでに「百二十人ほどの人々が一つになっていた」が、キリストの教会として誕生するためには、どうしても必要なことがありました。それは福音を宣べ伝えるということです。私たちの教会も集まるのは人間なので、一つ間違うと他人の悪口を言ったり、噂話をしたりしてしまいます。気心の知れた仲間で集まるほうが居心地がよいので、新しい人が入るのを嫌がるようになるときもあるかもしれません。しかし、もしそういう場所になるならキリストの教会ではなくなってしまうでしょう。

 聖霊が降ると、弟子たちは「ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)とあります。これは「彼らがわたしたちの言葉で、神の偉大な業を語っている」(11)とあるように、ほかの国々の人びとにも、福音を宣べ伝えるための使命を表しています。私たちが教会に集まるのは、「神の偉大な業」を語るためです。主イエス・キリストによって罪から救われ、神の民とされたという出来事は、まさに「神の偉大な業」です。その喜びを証ししていきたいと、心から願います。