2016年8月7日

「神の家族として」

 現代の日本社会では家制度というものが希薄になり、一組の男女を対として、いわゆる核家族として家庭生活を営んでいますが、家族的絆を血縁に置いている傾向は依然として強いでしょう。しかしながら、実際は家族の心にがバラバラなってしまっていたり、場合によっては家庭内別居のような状態を呈しながらも、なお家族であることをあらわす手だてを、血縁というものに置いていることがあるのではないでしょうか。

 ここで、主イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(48節)と問い、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(同49〜50節)といわれた言葉を聞き取りたいと思います。

 血のつながりを越えた神の家族、主にある兄弟姉妹のあるべき姿が指し示されています。だからといって、ここで肉親の家族を否定されたということではないでしょう。家族とは神様が用意してくださったのです。神様が私たち一人ひとりをその家族の中に置かれたのです。肉親による家族関係は「み心」において新たにされる時に、より大きな、かけがえのない神様からの祝福を得るのです。

 主イエスは、血縁家族を中心とした私たちの生き方や感性に挑戦してきます。そこにある不幸と悲惨を見抜いておられるからでしょう。それは、自分の存在の主体を血縁の中でしか捉えられないのですか、という問いかけに聞こえてこないでしょうか。そこからの解放は、一人ひとりが生の根源に目覚めることでしょう。