2016年6月19日

 

「祈る前にすべてを知る神」

 主イエスは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と言われましたが、ここでは「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(同5節)なと言われます。   祈りとは、信仰の行為そのものですが、それさえも人に見せるショーになってしまうことがあるのです。この当時、決まった時刻になれば、どこにいても大声で祈る。それが敬虔な信仰者の態度だと考えられていました。しかしそれがポーズであるならば、人にどう見せようが、神様の前では意味のないことです。

 祈りは神様との対話です。主イエス・キリストの御名を通して献げられる祈りによって、神様と私たちは向き合うのです。神様と二人だけになる場所をもつ。そういう自然な習慣を身につけたいと願います。主イエスも、しばしば山に退いてひとりで祈られたことが聖書に記されています(マタイ14:23等)。

 ただこういう言葉を聞くと、礼拝の祈りや祈祷会での祈りができなくなってしまうと感じる方がおられるかもしれません。この言葉を理由に、「献金のお祈りはいたしません」という感じになってしまっても困ります。誤解のないようにつけ加えれば、これは礼拝や祈祷会など公の場でなされる祈りを否定しているのではないでしょう。公の場という「場所」よりも、むしろ祈りがポーズになってしまうという「心の姿勢」が問題なのです。

 祈りはいったい誰に向かってなされるのか、という基本に立ちかえらされます。いくらひとりであっても、隠れることばかりに気を取られて、かえって神様よりも自分を意識してしまい、自己満足してしまうことだってあるかもしれません。