2016年4月10日


「復活のたしかさ」

 キリスト教信仰そのものの、まさにその核心部分であるキリストの復活は、初代教会以来宣教の根本内容の一つをなしてきましたが、また最大のつまずきともなり得ます。私たちは、ある複雑な問題が存在することに否が応でも気づかされるのです。この現実を意識的に受け入れようと思います。

 それは第一に、それらはイエスの受難のあと起こった、きわめて重要な意義のある何かが、弟子たちを逃げ回る臆病者からとてつもなく果敢な人物へと造りかえ、彼らの神概念を変えさせ、新しい聖なる日を誕生させる力を持っていたということを雄弁に物語っています。次に、弟子たちの説明を構成しているほとんどすべての細かい記事が互いに矛盾し一致していないということは、議論の余地のない事実です。そして最後に物語が後代のものになればなるほど、明らかに超自然的かつ奇跡的になっていることは、注目すべき事実です。これらは、キリスト教の誕生を取り巻く歴史に深く足を踏み入れようとするならば、取り組まなければならない事柄です。

 しかしながら、まずこの探求を、弟子たちの復活のイエス体験が彼らの人間性の限界を超えさせたことに注目したいと思います。イースターが何であったにせよ、それは彼ら弟子たちを召し出し、死の恐怖の壁を乗り越えさせたのです。弟子たちのイースター後の勇敢なる振る舞いがそれを物語っています。それは彼らの民族的なアイデンティティ(存在証明)を越えさせたのです。聖霊が彼らに誰が聞いても理解できる各地の言葉を話す能力を与えた物語にもそのことが示されています(使徒2章)。またそれは彼らに宗教の限界をも超えさせたのです。