2016年2月21日
「ベルゼブル論争」
今日の聖書箇所は、「ベルゼブル論争」と呼ばれる物語です。ことの発端は、イエス・キリストが身体に二重の障がいをもった人を癒されたことでした。目が見えず口が利けないということは、もしかすると耳も聞こえなかったかもしれません。その場に居合わせた群衆は皆驚いて、「この人はダピデの子ではないだろうか」(23節)と言いました。群衆の反応は素直です。直感的に「この人には、神の霊が働いている。この人こそ、来るべきメシアかもしれない」と思ったのです。
しかしファリサイ派の人びとは、素直にそれを認めることをしません。イエス・キリストに神の霊を認めると、自分たちの立場を揺るがすことになりかねないと思ったのでしょう。自分たちこそ神の言葉をもち、自分たちこそ神のみ心を知っていると、自負していました。嫉妬もあったかもしれません。
そこで彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追 い出せはしない」(24節)と言いました。彼らは、そこに人間を超えた力が働いていることを認めざるを得なかったのですが、それを神の霊ではなく、悪霊の力によるものとしました。そこには主イエスの業を、魔術、呪術などに対する厳罰の規定(申命記18:10〜12節など)に当てはめて、陥れようという陰謀も感じられます。
イエス・キリストの存在は、それを受け入れるか否かで、人びとを二つに分ける働きがあるようです。この世で何がしかの権威をもっている人は、理解を超える権威をもった人が登場すると、それを否定し拒否しようとする傾向があるように感じます。自分のもっている権威が自分に見合ったものではなく、その権威にしがみついて生きている人であればあるほど、そうではないでしょうか。自分の権威に自信がないから、それを脅かそうとする者が現れると、急いでそれを抹殺しようとするのでしょう。