2016年10月2日
「練りに練られた罠」
主イエスの三つのたとえ、「二人の息子」(マタイ21:28〜32)、「ぶどう園と農夫」(同章33〜45)、「婚宴」(マタイ22:1〜14)によって、これまで徹底的に批判された宗教的指導者たちは、もはや堪忍袋の緒が切れる寸前です。いや彼らはもうイエス・キリストを亡き者とする決意をしているのです。後はいかにしてそれを実行に移すか。いかに合法的に、巧みに、しかも自分たちの手を汚さないで実行するか、ということでした。そこで今度は宗教的指導者のうちファリサイ派の人びとが論争を挑みます。この論争は、非常に計画的に練り上げられていました。 「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談し」(15節)、作戦を立てて出直してきます。
作戦の一つ目は言葉尻をとらえて罠にかけるということです。正面から切り込んでも、手強いことを、彼らはもう心得ているからです(マタイ21:24参照)。 二つ目は、宗教的指導者たち自身ではなく代わりに弟子たちを遣わすということです。彼ら自身はもう顔を知られているだろうし、いかにも下から「弟子として先生に尋ねる」という形をとりました。 三つ目は、弟子たちをヘロデ派の人びとと一緒に遣わすということでした。これは実は尋常ではないことでした。というのは、ファリサイ派とヘロデ派は全く相容れず、互いに対立しているグループであったからです。それが今、一緒になって主イエスのもとに赴こうとしているのです。