2018年6月17日

「まことの礼拝」

 私たちは自分自身の問題に気が付かないでいることがあると思います。本当は問題を抱えて、時にはそれを薄々感じていながら、それ以上知りたくない、認めたくないということもあるのではないでしょうか。

 今朝の御言葉に出てくるサマリアの女はそうした人間の姿を表わしているように思います。主イエスはサマリアの女に言います。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(16節)。この主の言葉が、彼女の抱えている問題に迫ります。この女性との会話の後、礼拝のことに話しが移り、「まことの礼拝」について語られていきます。

 主イエスの言葉は、象徴的な表現というよりも、彼女自身が恥じて隠したいと思っていた事実を、主イエスが知っていたことを意味していたと思われます。あるいはその両方で、主イエスは1人の女性が自分にも周りにも隠して生きている辛い人生の中に、その社会や民族全体の問題を見ていたということかもしれません。いずれにせよ、この女性の触れられたくない問題、道徳的な後ろめたさ、人間のありのままの姿が指摘されたのです。そしてそのことと礼拝の話が関係しているというのです。   誰でも自分の本当の問題を隠したままで、主イエスと出会うことはできません。人にはともかく、神の御前に本当の問題に触れないままでまことの礼拝にはならないのです。   むしろ私たち自身の1番問題であるところでこそ、主イエスは私たちと出会い、そしてまことの礼拝へと導いてくださるのです。そして私たちの本当の渇きを礼拝の中で癒してくださいます。                                                まことの礼拝とは、永遠の命に至る「生ける水」を汲む井戸となるのです。