2018年6月10日

「イエス・キリストの名によって」

 使徒言行録の中で「大胆であれ」という呼びかけが何度も繰り返されるということは、逆にいえば、「大胆ではない」ような弟子たちの現実や状況があったことを示しています。   事実、イエス・キリストを証しすること、宣べ伝えることは、弟子たちにとって命がけの恐ろしいことであり、さまざまな犠牲をともなう行為であったことを、使徒言行録はいろいろな箇所で証言しています。

 使徒言行録に記されている、ペトロやヨハネが経験した逮捕や取り調べ、命令や脅しは、ほかの弟子たち、ことにパウロもまた経験したことでした。 牢獄に入れられ、鞭打たれるといった刑罰。また、私的なリンチのようなかたちで行われる暴力行為や迫害。                              見知らぬ町、見知らぬ人びとが、彼らに向ける嘲笑や無関心。こうした境遇の中で、弟子たちは町から町へ、村から村へと渡り歩き、あるいは時に逃げまわりながら、「イエス・キリストの名」によって「大胆に」語り、また行動したのです。

 主イエスの福音を宣べ伝える働きには、いつの時代にも危険や恥、失望、空しさ、徒労感といったものと背中合わせの営みでもあるでしょう。長年にわたって献げられ積み重ねられた多くの祈り、努力、知恵、配慮、そして投入された資財...。そうしたものが目に見えるかたちでめざましく信仰の果実が実を結ぶとは限りません。   一般社会の基準に立ち、効率や成果を基準として考えたら、宣教の業はまるで雲をつかむようなお話かもしれません。                                        しかし、聖書は私たちの宣教の業が決して空しいものにはならず、無意味なものではないということも証ししているのです。