2017年9月3日

「心の貧しい人びと」

 マタイによる福音書5章から7章は「山上の説教(=垂訓、祝福)」と呼ばれ、イエス・キリストのたいせつな教えが記されています。主イエスが最初に祝福されたのは、「心の貧しい人々」でした。

「心の貧しい人々」とは、どういう人でしょうか。日本語で、「あの人は心が貧しい」というと、「がめつい」とか「包容力がない」ということになりそうですが、ここではそういう意味ではありません。  そうでないとすれば、「謙遜な人」「無欲な人」を思い浮かべるかもしれません。謙遜な人、無欲な人が祝福されるのであれば、なるほどと納得するかもしれません。しかし、主イエスが祝福されたのは、必ずしもそういう人でもないのです。    「心が貧しい」とは、徹底的に貧しくて、心の中まで貧乏になってしまっている状態のことです。それは「がめつい」とか「無欲だ」とかいう価値観を越えた状態です。ある人はそれを「実存(≒心身)の内側に至るまで貧しい状態」だと言いました。物質的な貧しさに加えて、自分自身にすら何も期待できなくなっているということです。

 ではどうして、それが「幸い」なのでしょうか。私たちの常識からすれば、「心の貧しい人々は不幸である」ということにしかなりません。しかし主イエスは、まさにそういう人のところへ近づいて来られ、祝福を与えてくださる方なのです。

 主イエスは、「私はあなたの心の貧しさを知っている。その貧しさをそのままにはしておかない。この世の富ではなく、もっと真実なもので、心を満たしてあげる」と語られたのです。