2017年2月12日

「みことばに生きる」

 毎週水曜日の教会の祈祷会では、出エジプト記を読みすすめてきました。それは、エジプトから奴隷の身分であったイスラエルの民を、主なる神が守り導いてくださった約束の地カナンへの信仰の歩みです。 主なる神は、民への愛と熱情をもって、信仰者としてのあるべき姿を懇切丁寧に教えています。聖書は、その神こそ民を導く方であることを、証(あかし)しています。本来、律法もまたそのような神から与えられた恵みであったはずでした。   福音書において、主イエスはしばしば人びとを教え導く「教師」として登場します。その中で、主イエスは神を信じる者の生き方を一つひとつはっきりと説いておられます。そのすべてがキリスト者のあるべき姿を指し示すものであり、たとえばそれらの教えを私たちが勝手に取捨選択したり、選り好みしたりすることのないように自戒しなければならないでしょう。つまり、その言葉や教えを、私たちが水増ししたり割り引いたりすることなく、真面目に受けとめ、真面目に生きるということです。

 私たち人間は「あまりにも賢い」ために、主イエスの教えに聞き従って生きるよりも先に、その教えをあれこれとこねまわし、ああでもないこうでもないと議論し、それだけで一生を費やすことさえできるのです。

 キリスト者とは、キリストの教えに生きる人間のことです。その生き方はむずかしいことではありますが、主イエスの教えを共に聞く兄弟姉妹と共に、何とかして日々そのように歩む者でありたいと、心から願うのです。