2017年11月5日

「いい日旅立ち」

 アブラム(ヘブライ語で「父は高められた」という意味)の旅立ちを、聖書は「主はアブラムに言われた」という御言葉からはじめています。

 神によってのちにアブラハム(「多くの国民の父」)と改名される、彼の信仰の人生の出発でした。そしてそれは聖書が伝える神の救いの歴史のはじまりでもあります。     そのときアブラハムは75歳であったというのですから、それまでアブラハムが何も考えずに生きてきたはずはないでしょうし、むしろその年齢まで彼は思い悩んで生きてきたのではないでしょうか。しかし真の出発点はそこにはなかったのです。

 神の救いに生きる信仰者としての人生は、自分がどう悩み考えるかでなく、「主は言われた」ということから出発するのだと聖書は伝えます。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあり、「アブラムはハランを出発したとき75歳であった」と言われます。    信仰者としての人生は、「主は言われた」、つまり「神は言われた」から出発し、神につき従っていくことです。それは決して安穏とした生き方ではないかもしれません。日々のストレスで気がついたら信仰のことが希薄になってしまうかもしれません。    しかし、「主は言われた」ことを聞き、また思い起こし、私たちの人生の新たな出発にすることができれば、私たちの人生は最初の信仰に立ち帰らされ、救われた生活の中に戻されるのです。    いわば、この礼拝によって、私たちは「主は言われた」から出発する信仰の生活の中に呼び戻されているのです。