2017年5月14日

「人に見せるためでなく」

 今日の福音書の言葉を読む私たちは、私たちの行為が二つに分けられることに気づかされます。一つは「人から見られている」ということであり、もう一つは「人の目から隠されている」ということです。

 イエス様は、「悪い行いに注意しなさい」とは言われませんでした。悪い行いは、まわりの人が警戒しますし、やっている本人も悪い行いだと知っているのでしょうから、あらためて「注意しなさい」と言う必要がなかったのでしょう。   誰でも悪いことをする時には、できるだけ見つからないようにするでしょうが、善い行いをする時には、何となく見てもらいたいと思うものではないでしょうか。

 私たちが常に問われていることは、人に見られていることと、人の目から隠されていることとの現実をいかに克服するかということです。この両者を結び合わせるのは、やはり私たちが「隠れたことを見ておられる」方(マタイによる福音書6:4)を見上げることによってなされるのです。

 祈りとは、本来神に向かってなされるものです。それゆえに、祈る人の心や姿勢をあらわにすることがあります。私たちは祈りによって自分を敬虔で思慮深い信仰者に見せようとしたり、「祈りとはかくあるべし」と教えようとしたり、祈りによって自分の考えを他の人びとに向かって、聲高に主張する。その祈りはもはや神ではなく、人に向けられているのです。「隠れたことを見ておられる父」は、それをどう御覧になるでしょうか。   最も敬虔に見える「祈り」という行為の中にこそ、偽善的なものが忍び込む余地があるのだということを、イエス様は教えようとしているのです。