2017年3月26日

「主イエスの姿が変わる」

 主イエスの姿が変わり、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(マルコ9:3)とあります。これは主イエスが神の栄光に輝く姿をあらわしています。 そのことを弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が目撃します。弟子たちは「神の御子イエスの姿」を一瞬垣間見ることが許され、しかし「復活するまでは、今見たことをだれにも話すな」(=復活後に話せ)と命じられました。このことは、キリストの教会にとって共同の記憶となるためであったといえます。そういう意味で、山の上で三人が目撃したことは、私たちの教会にも生きて働く記憶でもあるでしょう。

 旧約聖書の律法を象徴するモーセ、預言を象徴するエリヤ。この二人がイエスと語り合っているという光景に圧倒されたペト口は、「仮小屋を三つ建てましょう」(同5節)という愚かなことを言い出します。すると神は雲ですべてを覆い、「これはわたしの愛する子。これに聞け」(7節)と声がしました。雲が消えると元の姿に戻ったイエスがいるだけです。エリヤとモーセは役目を果たし終えて消えました。「ただイエスだけが」(8節)共におられるのです。そして「わたしの愛する子。これに聞け」。これこそキリストの弟子の使命であることを、心に刻みたいと思います。  主イエスは山を下ります。そこには依然として無力な人びとの問題が待ち受けています。山を下りるとは、その問題のただ中へとあえて入っていくことです。イエスは「自分の十字架を背負って、 わたしに従いなさい」と招かれます。 

 神の栄光に輝くキリスト。「これに聞け」という神の御声。その確かな記憶は、聖書を通して、今も生きた記憶となるのです。