2016年6月26日

「求めよ、探せ、門をたたけ」

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書77節) 

 この言葉は、私たち人間の経験の面を示していると考えてよろしいと思います。つまり経験に現れるところでは、私たち人間が神を求め、キリストを求めるのです。

 聖書を読もうとするのも教会に行こうとするのも、信仰に入ろうとするのも、ほかならぬ私たち自身であり、私たち自身が求めて、そして与えられるということになります。ところが幸いにその求めが聞かれて、信仰に入ったとすると、その段階で、自分のこれまでの経験、歩みを振り返ってみますと、ある重大なことに気づくのです。それは自分が求めていたと思っていたのが、実は自分が求められていたのだということです。つまり神が、キリストが自分を求めておられたので、自分は神、キリストを求めるようになったのだということです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネによる福音書156節) 

 このところでは、キリストが人間である私たちを求めて選ばれたというふうになっているわけですが、この言葉は何を示すかというと、経験に現れたところを示すのではないのです。そうではなく、経験を超えたところの神の御業を示すと考えてよろしいと思います。私が求めるということは、これは明白です。けれども信仰の秘密はどこにあるかというと、経験を超えたところで、ある事柄が起こっているということです。これは信仰の奥義です。その経験を超えたところで起こっているのが、キリストが私を求めてくださったということです。