2016年5月1日

「万事が益となるように」

 私たちは祈ります。祈っていますが、そして祈ることはいっぱいありますけれども、しかし私たちはどう祈るべきかを知らない、と言われています。つまりこれは、正しい祈りを知らないという意味でしょう。あるいは的外れな、見当違いな祈りをしている、ということを指しているかもしれません。もしそうならば、そんな祈りは無駄ではないか。的外れで正しい祈りを知らないならば、そういう祈りは無駄ではないか。そういう祈りはいくら積み重ねたとしても、それにいったい何の意味があるのだろうか、と思うことがあるでしょう。

 しかし聖書は、そうではない、と言います。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、「自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と書いてあります。「うめき」というのは言葉にできない苦しみのことです。苦しみや痛みがどんな具合であるか、それを説明できて、人に伝えます。体のどの部分がどういうふうに苦しいとか痛いとか、それを人に伝えることもできる場合があります。あるいは自分にふりかかっている大きな問題で、それがつらいとか、苦しいとか、それを人に訴える、助けを求める、そういうこともあります。しかし、苦しみがあまりに大きい時には、その問題があまりに重く自分の身にのしかかって来た時に、私たちは言葉にならないのです。つまり、うめくしかない。まさにそのとき、神の霊が私たちのためにうめきながら執り成してくださるのです。つまり、私たちの祈りというのは、単に自分たちの私的な祈りではないというのです。神の霊が一緒に祈っていてくださる。しかもうめきながら、神に執り成していてくださる、というのです。だから、時に的外れな、言葉が上滑りするような、私たちの祈りにも意味があるのだ、と言われているのです。