2016年12月18日

「苦難の僕クリスマスの意味」

 イザヤ書53章は、「主のしもべの歌」あるいは「苦難のしもべの歌」と言われ、古くよりキリスト教会では、旧約聖書の中でイエス・キリストを最もはっきり預言したものとして、たいせつに読まれてきました。

 2節には「育った」とあります。また、この人は人生の途上において「苦しんで」と、その後に記されています。そして、「命を取られ」「葬られた」(89節)とあります。つまり、ここには、生れ育ち、そして、悲しみを負い、死んで葬られた人の姿がありありと描かれているのです。そして、その一生は、人の目には最初、敗北のように見えたが、しかし、その人の生涯によって担われたのは、実は私たちの病や痛みであり、悲しみであったことが告白されているのです。それゆえ、「この人」とは、まさにイエス・キリストご自身であると、初代教会の人びとによって告白されるようになるのです。

 主イエスの生涯は、まさに人びとの病と痛みを負われたものであったと言えます。そして、人びとの罪と破れゆえに十字架にかけられる際には、一切の弁明をなされず、ただ黙々とゴルゴタの丘に登られたのです。それは、イザヤ書537節に書かれている僕と同様でした。そのゆえ、主イエスは、ご自分は全く罪を犯されなかったが、にもかかわらず十字架にかけられ、罪ある者のように葬られたと聖書は言うのです。  主イエスの生涯をどう見るのか、それがたいせつです。イエスの死を結局は敗北と考えるのか、それとも、全く新しい救いの出来事として見るのか。ここに、キリスト教信仰の奥義があると言えます。

 イエスの死は決して敗北ではなく、私たちの過ちと背きを一身に背負い、神と私たちとの関係を、いま一度回復してくださる出来事であった、そう信じることが私たちの信仰であり、救いです。

 クリスマスと十字架のできごとが結びつかなければ、ほんとうのクリスマスの意味を味わっているとはならいのです。